文豪と恋と、考えること。20代前半、男の子が好きな僕の、恋愛観。

昔のすごい人たち……後に文豪とも言われるような人たちは、

どうしてか自殺をもってして、自身の生涯を終えてしまう人が多かったらしい。

答えのない問いを、永遠に突きつけられるような感覚。

例え「答え」にたどり着いたとしても、

その答えは「主観性」から脱却できず、

「絶対的」とも言えるような答えには達することができない。

ただ真摯に、その問いへと向き合えば合うほどに

真なる答えなど見つからないという現実が、頭の隅に透けて見える。

考えることをやめない人は謙虚だ。

自身の答えに満足して、その上に胡坐をかこうとはしないのだから。

胡坐をかいた上で、他人に講釈垂れるのはもってのほかだろう。

そんな傲慢さが、僕は嫌いだ。

でも、永遠に考え続けることは、それだけ苦しいことなのかもしれない。

考えた末に得られるであろう、その到達点…そこにある答えが、

「正しい答え」…この世の真理なんて

誰も証明できないのだから。

 

あの時、自分の人生に思いつめ

この世を去った文豪たちも

同じような気持ちだったのだろうか。

まあ、こんな僕じゃ、あのすごい人たちの心なんて

推しはかることすらできないんだけどね。



 

「正しい生き方」なんて存在しない

 

自分に、近い価値観をもっていて、

近い考えをもっていて

近い生き方をしている人に、どこかで会えたらなって思う。

それはきっと、今生きている自分の「生き方」や「考え方」が、

間違ってはいないんだっていう、そんな安心感を、ちょっとでも得たいがためなのかもしれない。

本当は、「正しい生き方」なんてないし、「間違った生き方」ですら存在しないことを

僕は理解している。

(もしかしたらあるのかもしれないけれど、僕にとってはこれが、暫定的な「答え」だ。)

だから、ただ単に

自分に「善く」あればいいのかもしれない。

こんなことを考えるようになったきっかけは、

まさに僕自身の「生き方」、「考え方」が

多くの他人のそれとは、少し異なるように思えたためだ。

「恋愛観」とも言えるものなのかもしれない。

しかし、僕が話すのは、人間関係全般にまつわる話だ。

わざわざ「恋愛」観と限定的にするものでもないだろう。

 

〇僕は「綺麗な人」なんかじゃない。

 

つまるところ、僕は一人の人間だけを見つめ、ただ一人に献身的に尽くすような

いわゆる「一途」で「まっとう」で、「綺麗」な人間ではない。

(そんな人間が本当に存在するのかは、甚だ疑問ではある、が。)

イメージしやすいように、話を具体化してみよう。

正直に打ち明けてしまえば、

僕は交際相手との間に合意があれば、他者と性行為しても

良いと考える人だ。

そしてそうした在り方に嫌悪感はない。

(もちろん、ここには自分なりの考え方がたくさんあるが、詳細は省きたい。
聞きたい人は直接会った時にでも。誰にでも話すというわけでもないけれど…)

加えて、ポリアモリーという生き方にも、一つの生き方としての可能性を感じるし、

同様に嫌悪感は持たない。

(現状、この生き方を選択するつもりは今のところないが。)

また、逆に恋愛感情を持たず、他者と身体的関係しか築かないのも一つの選択だし、

ただ一人の人と、恋愛性愛の関係を結ぶのもありだと思っている。

 

要するに、「選択」の問題だ。そこに良し悪しなど存在しない。

すなわち「正しい恋愛」も「間違った恋愛」もここにはないのだ。

また「友達」や「親友」なんて肩書もこの世には存在するが、

どんな”友達”でも”親友”でもいいと思っている。

  

〇人間関係に、「正しい」も「間違い」もないのに。 

 

ただ僕のこうした考え方の一方で

世の中の多くの人の間では、誰かひとりを一途に深く愛し、結ばれ、永遠を誓うことが

どうやら幸せで、是であるとされている。

「正しい人間関係」など、ないのにも関わらず、だ。

考え方生き方価値観は、その人のいる環境や時間によって常に、変化し得るもの。

そして多くの人は、そのことを知っているだろう。

そうであるにもかかわらず、「一途」で「不滅の愛」とやらを美化し、崇拝する

傾向には、頭を悩まさざるを得ない。

「人間は変化してしまうからこそ、不変であることに価値がある」

とする見方もあるし、納得できるところでもある。

しかし「一途」や「不滅の愛」は「正しい」ものでもない。

一つの選択肢にすぎないのだ。

でもどうしてか、それを誇張、美化、崇拝する傾向がある。

悩ましい点はまさにそこだ。

加えて質が悪いのは、

そうした「一途さ」や「綺麗さ」…いわゆる「純愛」を崇拝する一方で

そうでない人間を、蔑視するような人がいるということだ。

「え、交際相手いるのに他の人とやるの!?」
「交際する前に体の関係もつの!?」
「身体の関係しか望まないの!?」
「合意の上で複数人で交際するの!?」

「まじあり得ない…」

驚きを示すことはある。反射的な反応とも言えるだろう。

しかし他者の在り方を否定することに

一体なんのメリットがあるのだろうか。

個人が何を信条としているかについて、あまりとやかく言いたくはないが

まるで、「一途に」、そして「綺麗」に誰かを愛することが普遍的な「愛」であり、

絶対的で幸せで、「正しいもの」だと、盲信しているように思えてならない。

「正しい生き方」なぞ、存在しないのにも関わらず。

僕はそんな、見せかけの「正しさ」に縛られた、狭い人生を

生きたいとは思わない。

 

要するに

何が正しくて、何が悪いのかという普遍的な答えはないのにも関わらず

「清くまっすぐな恋愛」こそ正しいとするような風潮はどうなの?という問題提起です。

そしてその裏で、蔑視される選択肢があることが、また問題。

交際とは両者が両者にとっての、最良の選択を探し出すものだと、僕は思っている。

故にその選択肢が多ければ、関係維持に効果的であるのに、

「何が正しい交際で、正しくない交際か」という偏った見方、風潮が

その選択肢をひどく狭いものにしていると感じてしまう。

〇親友だとか、友達だとか

 

恋愛観と同じ地平にあるもの。僕は“親友”やら“友達”をそう考えている。

親友とか、友達とかいう言葉はあまり好きではない。

都合の良い言葉である上に、抽象的な人間関係を、無理やり言葉で表したような

そんな感じがするからだ。

実際、友達とはどこからどこまでの関係性の人を指すのか、具体的に線引きができるであろか。

少なくとも僕は無理だ。

(これを高校時代ですでに感じていた。)

故にこれらの言葉は、便宜的に存在しているという認識でしかない。

こうした経緯があるため、自分にとっての「友達」や「親友」を、

「仲のいい人」という抽象的な言葉で表したく思う。

 

僕にとっての「仲のいい人」とは様々だ。

ただその中に、今後も積極的に、長く関わっていきたいな、と思える人がいる。

例えば、ソフト面とハードな面で近しい人だ。

ここで言うソフトとは、内面的なことを指す。

近しい価値観を持っていたり、一緒にいて苦痛じゃなかったりする人だ。

ハードな面とは、外的要因を指す。

例えば、各々の仕事に繋がりがあったり、同業であったり。

趣味が似ているのも含まれる。同じ趣味で語り合える人だ。

こうした二つの側面から、近しい人とは

今後も長く関わっていきたいと感じている。

 

ここまでつらつらと書いてきたが、最近ここにも少し考えの変化があった。

今文書にしてまとめるほど、考えが整理されていないのもあるが

何しろ自分の中でも非常に新鮮な考え方であり

「鮮烈」なものだ。(苛烈的、刺激的ともいえる)

言葉にするのは難しいので

こちらもおいおい、話をできる人にだけ話してみたいと思う。

整理ができしだい、ここに書いてもいいかもしれない。

 

ひとえに、今後長く関わって、かつ腹を割って話せるような人ができれば

幸せだろうな、と思っている。

「あのころ、仕事でこうだったよな笑」

なんて語り合える仲間が、一人でも多ければ、

きっと楽しい。

もちろん、恋人とながく一緒にいれることは幸せだろう。

しかし、それ以外にも、いろんな人長くと関わっていられたら

もっともっと幸せかもしれない。

僕はそういう生き方がしてみたい。

 



〇終わりに。取り留めのない、思考の中で 

 

自分の人生だとか、人間関係だとか、なんて答えのないものを

雨の雫が、ほんの少しだけ滴る窓越しに、街を見下ろしながら

ぼけーっと考えていた。

相変わらず出てくる言葉は稚拙で

かっこつけようにもかっこつかないような

そんな文面が出来上がってしまった。

心の平穏こそが平和なり、なんてよく聞くけれど

心が揺れて、考えるきっかけがなければ

こんなエモい気持ちに身をまかせ

かたかた文字打ったりなんてしないんよな。

傑出した作品を残す芸術家に、精神が不安定な人がいるのも納得ができる。

もうかれこれ四時間近く、ぶっとおしで考えたり、文字打ってるよ。

まぁ、楽しいからいいんだけどね。

ともかく、今日もお付き合いいただきありがとう。

僕の記事なんか読んでくれる人は

きっと変な趣味をしているに違いない。(失礼)

でもその変な趣味は誇るべきものだ!

他人と同じような趣味よりも

他人とは違う、独創的なもの…

変なものにこそ、僕は価値があると思っているからね。

この世界はきっと、物事をどうとらえ、考えるかにかかっているんだよ。

自分の考え方次第で、この世界はどうにでもできるんだ。

複雑怪奇したものに世界を捉えるのなら、

きっとその世界は奇怪なものであろう。

世界に見放され、自分を孤独と思うのなら
なるほど世界は冷たい奴かもしれない。

しかしだ。

世界をどういう風に見るかは

自分次第なんじゃないかな。

物事に意味を与えるのは常に自分だ。

大好きな食べ物や飲み物を前にした時
魔法で量を増やしたりはできないだろう?
でも

「もうこれだけしかない!」と捉えるか
「まだこんなにある!」と考えるかは

自分で決めることができるんだ。

ある問いに対し

「絶対的な答え」…真理がないからこそ

こうした考え方ができるんだろうね。

確かな答えがないことに苦しみ絶望するか

答えがないことに「自由」を感じ楽しむか。

答えのない中考え続けるのでもなく、

考えを放棄し胡坐をかくでもなく

考え方…捉え方を変える。

僕はそんなことができる人でありたいな。

 

 

 

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