
こんにちは!男の子が好きな男の子、なつきです。
見てきました!
「マティアス&マキシム」
これ。ただのBLじゃねぇ。笑
今回は、同性愛者である僕がこの映画の感想なりなんなりを、書いていきたいと思います!
また余談ですが『窮鼠はチーズの夢を見る』『ミッドナイトスワン』『海辺のエトランゼ』についての記事もあります!
たくさんの方に読んでいただけました!
まだご覧になっていない方はこちらもどうぞ。



ではでは……目次の後!本題に移ります!↓↓↓
「マティアス&マキシム」とはどんな映画?ネタバレ無し!
さて、まずは映画のあらすじから!公式サイトに大まかなストーリーが掲載されていました。
たった一度の戯れのキス。そして溢れ出す、君への想い。
30歳のマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)とマキシム(グザヴィエ・ドラン)は幼馴染。その日も一緒に仲間のパーティへ向かうが、そこで彼らを待ち受けていたのは友達の妹からの、あるお願い。彼女の撮る短編映画で男性同士のキスシーンを演じることになった二人だが、その偶然のキスをきっかけに秘めていた互いへの気持ちに気付き始める。美しい婚約者のいるマティアスは、思いもよらぬ相手へ芽生えた感情と衝動に戸惑いを隠せない。一方、マキシムはこれまでの友情が壊れてしまうことを恐れ、想いを告げずにオーストラリアへと旅立つ準備をしていた。迫る別れの日を目前に、二人は抑えることのできない本当の想いを確かめようとするのだがー。
映画「マティアス&マキシム」公式サイトhttp://phantom-film.com/m-m/about.php

主人公マティアスと、マキシムの二人の想いを描いた作品。
マキシム役ダザヴィエ・ドランさんは、映画の監督でありながらも、主役を演じています。

本作の舞台はカナダ・モントリオール。
ケベック州にあるこの都市は、カナダでありながらフランス語をメインに扱う都市です。
そのため劇中、基本的にフランス語が使われています。
主に描写されるのが、二人の主人公に加え、その仲間たちです。
彼ら幼馴染と共に大人になり、友情と恋愛感情に葛藤する姿が繊細に描かれています。

子供のころからずっと一緒にいて、みんなで大人になっていく。
日本映画じゃあまり見られないものですよね。笑
「マティアス&マキシム」の見どころは?
では!僕の思う本作の見どころは、
「友情とは確実に違う、何か大きな気持ち。そんな気持ちに揺れ動きながらも、自分自身に向き合っていく二人の姿」
です。
マティアスやマキシムには、幼馴染であり友人である仲間がいます。
共に育ち、大人になり、酒を酌み交わす仲である彼ら。
そんな彼らの仲にある友情を、壊しかねない気持ち。
二人は一度のキスを通して、その存在に気づいてしまいます。
たった一度、短編映画の撮影で、不本意ながらも交わしてしまったキス。
相手への感情が、友人として、幼馴染としての気持ちなのか。
それとも、「それ以上の何か」なのか……。
そうした想いを胸に、戸惑いながらも、自分と相手の本心に向き合っていく。
そんな物語です。


二人の葛藤、そして気持ちを抑えられずに衝動的になってしまう様……
そうした思いが緻密に描かれています。
相手へきちんと向き合うことも大事ですが、それ以上に
自分の本当の気持ちに向き合っていくことのつらさ、苦しさ、大切さが詰まっている映画です。
また、監督であるダザヴィエ・ドランさんは、こうもおっしゃっています。
僕は彼らにアイデンティティとセクシュアリティに関して自問して欲しいと思った。自分自身を探って見つけようとするのが20代前半ならば、
20代後半になれば、自分自身のことをもっと理解できているはずだから。強く同性に惹かれた時、どうするか、ということを。
https://www.google.co.jp/amp/s/cinefil.tokyo/_amp/_ct/17384343
僕自身も同性愛者であり、セクシュアリティの自問を繰り返してきました。
そうした自問も、実は一部の人間に限ったことではなく、時として多くの人が経験するかもしれない葛藤であることを、監督は示しています。
自分自身に向き合うことの本質を、「同性に惹かれてしまう」という、アイデンティティの揺らぎ、気づきを通し表現しようとしたところには、脱帽です。
ぜひ劇場で!ご覧ください。

さて!ここからは本題です。「マティアス&マキシム」の僕なりの解釈と感想を述べていきます。
ネタバレ込みなので、まだ映画見てない人は、ブラウザバックを推奨します。
⚠最初に注意点です⚠
僕自身は作品に関する知識0の状態で劇場に足を運びました。
また当方一度しか映画を見ていません。
一部間違え等々あるかもしれませんが、あらかじめご了承ください。
「マティアス&マキシム」の僕なりの解釈と感想。ネタバレ有り!
本作のテーマとは。
さて、僕の思う本作のテーマは、「自分自身に向き合うこと」です。
このテーマは作品の根幹を成すものであると考えます。
そして自分と向き合う過程で、生じるものが二つあります。
一つは、自分の気持ちに気づくこと。
もう一つは、その気持ちを自分の中に受け入れること、です。
自分の気持ちを受けいれる際、そこには多くの葛藤が含まれます。
例えば、「男である自分が、男に好意をもってしまうこと」に対しては、
「同性を好きになっていいのか」「この気持ちは気のせいだ」という否定的な思いが生まれます。
そしてその思いと共に
「好きになってもいいのかもしれない」「それが自分の素直な思いだ」という肯定的な思いもあります。
この否定的な思いと、肯定的な思いは両立し得るものです。
こうした、一見すると相反する二つが、実は両立し得る、という点が、本作の一つのキーになっています。
相反する二つの物が両立する時。
相反するもの。表現主義と印象主義

劇中、最も印象的なシーン。
それはマティアスとマキシムが、映画の撮影で口づけをするシーンです。
この時、友達の妹が、撮影する短編映画の説明をしています。
ここで出てきたのが、「表現主義」と「印象主義」という言葉。
「表現主義」とは、表現されたものの裏に、何か情緒的なものを含めたり、視覚で得る情報以上のものを表現することです。
そして「印象主義」とは、視覚で訴えたそのものを、そのままに表現することです。
例えば夕日に対し、
何か寂しげな、現代的に言えば「エモい」感覚を表現することが「表現主義」
赤と黄色のグラデーション(視覚)を表現することは「印象主義」
ということになります。
マティアスは「この二つが両立し得るのか」と妹に対し聞いていました。

エモい!が「表現主義」です。見たままが「印象主義」です。(雑かよ…)
劇中最も印象的なシーンに使われるこの二つの言葉。重要な意味があるのではないか…と考えます。
相反するもの。男と男
これも、相反するものに含まれるものかと思います。
残念ながら、同性愛は未だにイレギュラーな存在として扱われます。
(得に日本はそうですよね……)
多くの人は異性を愛します。
故に「男と男」というのは、「一部の人だけ」の性的指向と考えられがちです。
そうした意識が、主人公二人にもありました。
彼らは、男同士でキスシーンを演じることに抵抗を示しています。

見た目は男でも、(見たまま・印象主義)中身やその奥に表現されるもの(表現主義)をテーマに映画を撮影していますね。
結局この後二人は、お互いに惹かれ合っていきます。

相反するもの。英語とフランス語
劇中、この二つについても度々触れられています。
劇中序盤から、友達の妹が英語を話すことを批判する友人のシーン。
そして、中盤マキシムが母親と、弟の「留守電」についての話をするシーンにも表れています。
母は英語が聞き取れません。そんなマキシムも、英語は拙いものでした。
また、弁護士であるマティアスが、トロントから訪れたケヴィンと英語で話すシーン。
ここでは、ケヴィンのざっくばらんな姿に圧倒されるマティアスが、拙い英語で会話しているところが印象的です。
仕事に対する姿勢も、マティアスとケヴィンでは対照的なものでした。


劇中、ここまで二つの言語に言及するシーンが多いのは、なかなか珍しいと思えます。
カナダのケベック州では、フランス語がかなり重視されています。
古くからの使用言語がフランス語であるため、自州の文化を保持しようとする風潮がありました。
ここにあるのは、多文化主義の国にありながら、己の州のアイデンティティを貫こうとする姿勢です。
多様な他者を受け入れつつも、自己の個性は埋没させず、生かしていく姿は、
人間にも当てはめて考えることが可能ですよね。
この映画で二つの言語が示すことは、そうした異なるもの同士でも、お互いを殺すことなく共存できる、という「一見すると相反するものの、両立」です。
相反するもの。動物と人間

これは、先のマティアスとケヴインが、クラブで会話をするシーンで出てきました。
ケヴィンは貞操観念についての持論を展開します。
「人間はみんな動物的なんだ。それに気づかない人も、直に気づく。」
そんなことを、マティアスに話しました。
ケヴィンには、婚約者がいます。
そうでありながらも、二人が訪れたクラブは、女性が裸でポールダンスをするような、風俗店とも言えるクラブでした。
1人の婚約相手を、一途に思い、一生を添い遂げる。それが人間的だと表現しています。
しかしケヴィンは、人間は元から動物的であることを主張します。

ケヴィンの存在は、愛する婚約者がいながらも、性に自由な姿勢を持つというものです。
一見すると両立しえないものを、彼は持っていました。
相反するもの。母との関係

マキシムと、その母・マノンの関係は、本作において重要な側面を持っています。
マキシムは、母のことが確かに好きでした。
母に食事を作ったり、母の生活のため、後見人を叔母にお願いします。
しかし母はそうした行動に対し、反発します。
息子に世話をしてもらうことが気にくわないのか、マキシムと口論することも、度々ありました。
中でも、母が食事を出し、「優しい母」の姿を見せるシーンはつらいものがありました。
母はマキシムの思いやりを理解したのではなく、ただお金を返して欲しいがために、マキシムにすり寄るような態度を見せたのです。
マキシムは怒り、その場を出ていきました。
涙を流しながら鏡を殴るシーンが、とても痛々しく苦しみを表現しています。

マキシムの想いや行動には、母・マノンにとって相いれないものでした。
そうした二人が、共に暮らしていた点は、相反する二つが両立していたとも捉えられる部分です。
母が好きでも、拒絶されてしまうマキシム。
そこでできた手の傷に、優しく口づけをしたのはマティアスでした。
補足
これは完全に僕の憶測なのですが、マキシムの頬の傷は、
もしかすると母から受けた傷なのかもしれません。
直接的な描写がないので確信はもてませんが、
分かり合えない母となんとか一緒にいようと苦悩する、彼の心の傷を、
表面的に表したものとも考えられます。
ただの痛々しい傷跡。
視覚的にはそう見えても、彼の心の傷を暗に示しているのかもしれません。
ここにも、印象主義と表現主義の見方の違いにより、
作品の解釈を奥深くさせる要素がありますね。
相反するもの。友情と恋心

本作は、古くからの仲間との友情と、お互いに惹かれ合ってしまう感情とを合わせて、描写しています。
ここには、マティアス、マキシム両者の葛藤が深く表れるところです。
マティアスには婚約者がいます。
それ故に、婚約者以外の人へ「恋心」を抱くことには抵抗があったのではないでしょうか。
しかも、その相手は幼馴染であり友人のマキシムです。
「あの時のキス」から気持ちが芽生てしまったと感じ、マキシム含め仲間たちと距離を置きたいと思っていました。
マキシムのお別れパーティにも欠席するつもりでしたが、婚約者の説得でしぶしぶ参加することとなります。
しかしそうしたマキシムに対する気持ちも、徐々に確固たるものになっていきました。

パーティの途中、みんなの和から抜け出しマキシムと二人きりになるシーン、ありましたよね。口づけをしてから、気持ちが抑えられなくなるところ、めちゃくちゃ官能的でした……。
でもどこか切なくて、つらさもあるところに、表現の奥深さを感じます。

マキシムの葛藤は、今ある友情を壊してしまわないか、という思いです。
母親含め、家族ぐるみの付き合いである仲間。
そんな中で自分の想いをマティアスに打ち明けてしまえば、今の友人としての関係を維持できなくなると思ったのではないでしょうか。
加えて、
「もしマティアスも、自分に対し想いを寄せてくれているのなら。」
とも、マキシムは考えたと思います。
ともすれば、マキシムは、マティアスと婚約者の関係性を、壊してしまう立場になりかねません。
こうした思いがあって、彼は想いを告げず、オーストラリアに旅立とうとしたのではないでしょうか。

僕も経験があることですが、元々友人だった人に恋をしてしまうのは、非常につらいものです。
友人への好意に気づいたとき、それがどういう思いなのか、最初は分かりません。
友人として好きなのか。親友として…それともそれ以上の「何か」なのか。自分でも分からなくなります。
そしてそれが「恋」であるとわかった時、本当の自分の想いを知ります。
しかし同時に、その想いを打ち明けられないことに気づきます。
友人としての仲が壊れる恐れが大きい場合、告白もできなくなるためです。
友人として一緒に居れなくなるのなら……。
そう考えると、自分の気持ちを伝えることすらできません。
友情の維持をするのか、それとも、想いを伝えてしまうか。
これも「一見両立ができない相反するもの」です。
まとめ。
本作のテーマとキー
僕の考える本作のテーマは、「自分自身に向き合うこと」です。
そしてキーとなるものが、「相反するものの、両立」であると考えています。
ここまで、劇中存在した、一見両立し得ないものであろうものをまとめてきました。
⓪表現主義と印象主義 ①恋愛感情を介した、男性同士の関係(男と男) ②英語とフランス語 ③動物と人間 ④母との関係 ⑤友情と恋心
以上の六つです。
自分自身と向き合う二人を描く際、
こうした「一見すると、両立し得ないもの」は効果的に、時に婉曲的に、二人の葛藤を示していました。
①同性間の恋愛もそうです。これは「一見すれば相反するはずの関係性」にあたります。 しかし、同性同士で交際することも、家族を作ることも可能なのです。
②多くの国は、公用語を一つに定めている国です。しかし二つから三つの言語を公用語にする国もまた存在します。 その代表的な例がカナダです。 カナダは多文化主義の国家として知られています。 フランス語文化を重視する州もあれば、そうでない州もあります。一つの「色」に染まることなく、お互いがお互いに自己を保ちながら、一つの国として成り立っています。 こうした「互いに尊重し合い共存する姿勢」は人間関係にも適用できるものです。
③劇中ケヴィンが言う貞操観念については、少し先進的なものとも考えられます。 愛する人が居つつも、オープンで開かれた、自由な性的関係を構築する。 「動物と人間」の話にはこのような意味合いが含まれていると考えます。 現状は、1人が1人の人間と、慎ましく愛し合うことが「善し」とされます。 しかし、性に自由な考え方も、一つの可能性として十分に考慮できるものです。
④母との関係は、マキシムにとって頭を悩ませるものでした。
しかしそんな彼の意を受け入れない母であっても、共に暮らしていました。
⑤友情と恋心は最も難しいものであると考えます。 マキシムは想いを打ち明けずオーストラリアに向かうことを決めているため、友情が壊れるシーンも、ありませんでした。 (劇中終盤、オーストラリアに向かうところで、映画は終了しています) その後、彼らはどのように、お互いの気持ちに向き合ったのか、それは分かりません。 しかし、もしかすると、友情も、恋心も、両立し得る方法があるのかもしれないと、考えさせられます。
思い込みを捨てて
自分自身と向き合う際、「思い込み」というものは非常に大きな障害になります。
自分は同性を好きにならない、という思い込みも、もしかしたら、違うかもしれない。
1人を愛し続ける姿勢以外に、何か別の在り方もあるかもしれない。
分かり合えない身内とは、本当に決別すべきなのか。共に暮らす術もあるかもしれない。
友人でいつつも、恋心を伝えることができるかもしれない。
この物語の根幹には、こうした、一つの型や普通にとらわれず
「もしかしたら、他の在り方や術があるかもしれない」と考えること。
ここにあるのだと思います。
こうした自問を通し、自分自身の本当の想いに、気づいていくのではないでしょうか。
これこそが、僕の思う本作のテーマ、「自分に向き合うこと」です。
最後に!
ここまで本記事をお読みいただきありがとうございます!
他の「映画みてきた!」記事よりも幾分か難しい内容になってしまいました…汗
自分の思いを言語化するのって難しいです……笑
(分かりずらいところが多かったと思います。ごめんなさい汗)
映画の解釈は人それぞれです。
皆さんも自分の解釈や思いを大事にしていただけたらと思います。その上で、「共感できる!」なんてところがあれば、僕もうれしいです。
さて!
今回記事のテーマにさせていただきました『マティアス&マキシム』は、今も公開中の映画です!
ぜひ劇場に足を運んでみてください。
また、先に紹介しました!他の「見てきたよ」シリーズもあります。笑
まだご覧になっていない方はこちらもどうぞ。



そして今お付き合いしている人との記事です!

以上です!また別の記事で……ばばい!
この記事執筆者である僕のインスタグラム、Twitter、その他おすすめ記事は以下の通りです。
ぜひフォロー&閲覧、よろしくお願いします!
https://www.instagram.com/natsu.tsu.ki/?igshid=1vtv40lxgzat3
