劣等感に溺れる

暗い部屋で 無機質な明かりが

まぶしいくらいに 目を突き刺してくる。

流れる文字の羅列をなぞりながら 

今日も 自分とは違う誰かの生を

画面越しに眺めている。

 

「あーあ。今日も寝れなかった。」

 

誰もが寝静まる夜、「今日の第一声」が口からこぼれた。

遠くの方から、電車の走る音が聞こえる。

ゆっくりと寝不足の体を起こし 出かける支度をした。

思わず目をそらしたくなるような 太陽の光が滲みだし

半分の月と 末明(ほのか)に色づく赤色の空が 

隣り合う時間。

ようやく眠気が訪れる。

浅くなる呼吸に不快感を覚えながら

少し肌寒い空の下 半ば強引に身体を奮い立たせ

駅に向かい 歩き出した。

今日も自分らしく生きようと

そんなことを思いながら。





 

僕は「子供」ではない。

世間一般に言う「大人」とも、違うのだけれど。

でも、「子供」であった僕とは お別れしたつもりだ。

明確なお別れの瞬間があったわけでもないけれど。

 

他人と自分とを比べてしまうような「子供」な僕とは、

もう遠い昔に さよならしたんだ。

「子供」な僕は、劣等感に溺れていた。

負けず嫌いで 自分が他人よりも「優れた存在」でいたかった。

それ故なのか、周りと自分とを比べては 悲観的になることが多かった。

自分の顔に、コンプレックスだってあった。

ある時を境に、写真で笑わなくなったのを覚えている。

そして高校時代 たまたま同じ性別だったあいつに

叶わない恋をした瞬間、

劣等感が塊となって 僕の心に巣くった。

 

「あ、周りと同じように幸せになんてなれないんだ。」

 

狭くあさましい思慮で、そう思ってしまった。

人と比べたって 幸せになんてなれない

これが、「子供」を卒業する時

気づけたことだと思う。

だから、他人のあらゆる行動、思想と、自分とを比較することを、やめた。

他人が何を思うが、しようが、

直接的害が自分に及ばない限り、なんでもいい。

人畜無害な他人の行動に、自分の感情が想起されたのならそれは、

自分の中の価値観が、他人の行動と比較された結果だ。

他人の行動と自分の価値観を比べてしまい、感情が想起されれば、

その分だけ時間も精神的キャパも

消費される。

悪いけど、僕の心のキャパシティは貴重なんだ。

僕は自分と、大好きな人たちのことを想うので忙しいからね。

だからできるだけ、自分の心を負の感情に浪費させたくはない。

ただもちろん、例外はある。

他人と比べた時、プラスの感情が芽生えるケースもあるからだ。

だからあえて、他人と自分とを比べるケースもある。

ただそれはどちらが優れているか否かを問うものではなく、

自分にない価値観に触れて、新しい物を探すためのものだ。

だから僕は決まって、出会ってわずかの人には

いろんな質問を相手に投げかける。

もちろん一問一答のようなことはしない。

なるべく、自然に。

そして相手が楽しく、いろんな話をしてくれれば万々歳だ。

 

相手のことを評価せず、フラットに接する。

これが僕なりの、他者への「リスペクト」の方法だ。

そうした「リスペクト」の過程で、相手を知れた時の感動は大きい。

「え、この人こういう考え方すんのかよ……」

という風には考えない。

ここには僕の価値観と、照らし合わせたうえで生じる嫌悪感や感情が挟まるからだ。

それはフラットともリスペクトとも言えない。

そうではなく、

「この人は、どうしてこういう考え方をするんだろう。」

と、冷静に「興味」を持つことだ。

興味を持つ末にその答えが分かった途端、その人を形成する価値観に触れることができると

僕自身勝手に思っている。

「この人にはこういう出来事や性格があって、だからこういう考え方なんだ!」

そう考えると、その相手に持っていた「興味」が、「好意」にも変わる。

僕はこの瞬間が大好きだ。

だから知らない人と会う事が好きだ。

SNSを通して人と会えることの最大のメリットはここにあると思う。

 

僕は誰かの行動に対し無関心というわけではない。

ただ、「評価」をしないだけだ。

フラットに考えているだけだ。

自分個人の尺度や価値観は、この世の真理とは言えない。

普遍的心理と断定できもしない、個人の尺度で他者を評価するのは

行き過ぎた傲慢ではないだろうか。

そうとも思えてしまう。この部分は病的なまでに謙虚なのだろう。

でも、この謙虚さには惹かれてしまう。

他者を卑下することもなく、新しいものをもたらしてくれる者として

尊重するような在り方だからだ。

それでいて、こうした在り方に依拠していれば、負の感情を抱くことも少ない。

ともすれば、自分の心に余裕が生まれる。

ちなみに、割と意識されないことではあるが、

この心の余裕は他者へと伝染する。

(その人の感情は正負関わらず伝染することが、心理学上分かっている。)

心の余裕のある人の周りに、余裕のない人は集まりずらいし

その点でいえば、個々人が感じる「幸福度合い」も

自然に集まる集団内では同じくらいの人が多いのかもしれない。

集団内の心の余裕は、その分だけ集団のパフォーマンスの向上をもたらす。

ともすればその環境に好循環が生まれ、

居心地が良い環境が生まれる。

その居場所にいる人の幸福度合いはおのずと高くなるだろう。

加えて「運がいい」とも感じるのではないだろうか。

「今幸せですか?」と聞かれると

少しスピリチュアルな匂いもしてしまうが、

個人の感情と集団のパフォーマンスを考えれば

割と説明できてしまうものなのかもしれない。

僕は劣等感に溺れる「子供」ではなくなった。

でもまだ、「大人」ではない。

どんな人間になりたいか、なんて明確に言葉にできる人はきっと少ない。

でも僕は、こんな謙虚で器のでかい人になりたい。

だから、外資系ホテルマンになるって決めたのだ。

日本人だけじゃなくて、いろんな国の人と接することができる。

いろんな人に接するうちに、いろんな価値観に触れて

いろんな新しいものを見出すことができる。

評価はせず、リスペクトをして、自分の心にも余裕をつくる。

そんなかっこいい人になる手段が、この職場にはある。

誰しも完全ではないし、完全にはなれない。

でもこうやって何かに向けて少しでも動くことが

自分らしく生きるってことなのかな。

なんて思ったり、思わなかったり。

 

あー。眠い。今日も仕事お疲れ様。

 

 

 

 

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